読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

あふれるほどの情熱を

V6のおはなしと、大学生活

パラリンピックを終えて

パラリンピックが終わった。V6ファンの人の多くはNHKの番組を見たことだろう。

パラリンピック開催期間中、障がい者への態度について考えたことがある。

 

私が通っていた小学校には障がい者学級があった。私は週一回掃除当番でそのクラスの子たちと一緒に掃除をしていた。まだ小学生だった私は、彼らの障がいがどのようなもので、どう配慮したらよいか分からないまま、特に何をする訳でもなく普通に接していた気がする。学校が求めていた健常者の児童の取るべき行動は、きっと健常者の友人と同じように接することだったのだろうが、今思い返すと私はそれだけではいけなかったと思う。

障がいがあっても無くても、みんな同じ。この考えはもちろん絶対的に正しい。ただ、これを無条件に振りかざすのはどうなのかな、と思うことがある。

 私は、違いを認めた上でそれを差別の原因としない意識を持つことの方が大切だと思う。

 

獣の奏者、という本を読んだことがあるだろうか。上橋菜穂子さんのファンタジーだ。本筋とは全く関係がないが、私がハッとさせられた部分がある。

 

主人公のエリンは、民衆にとけ込まず山間部で暮らす"霧の民"の特徴である緑色の瞳をしていることで、幼少期から奇異の目で見られることがあった。やがてエリンが獣医師の学校に入って出会った、寮の相部屋の女学生ユーヤンのセリフが以下である。

 

「エサル師は、あんたが霧の民の血をひいとることは無視せぇって、おっしゃったけど、それは無理やんなぁ? ちがうところがあったら、気になるんが、人ってもんやん。わたしはなぁ、無視するんじゃなくて、その違いを、勝手に悪い意味にとるような、くだらんまねはせんって、はっきり伝えることのほうがずっと大事だと思うん」

 (獣の奏者 I 闘蛇編   上橋菜穂子 著   講談社)

 

障がいも個性、と言われて久しい。しかし、障がいを理解する姿勢のないまま障がい者と接することは、本当に障がいを個性と認めることになるのだろうか。
障がい者を差別することと、違いを認めて対応することは、全くの別物だ。けれどもそれを明確に区別することは難しい。だからこそ、ある意味「みんな同じ」の精神は、差別防止のための一番簡単な方法なのだろう。

 

パラリンピック障がい者のスポーツの祭典で、オリンピックと別に開催されている。けれどそのことが障がい者差別だとは誰も思わない。

仮に障がい者もオリンピックとて行われていたとする。おそらく障がい者も健常者と同じく挑戦していて偉い、と賞賛されていただろう。けれど、スポーツ分野で健常者と完全に同条件であることは、本当に障がい者のことを考えていることになるだろうか。障がいという、身体的・精神的特徴を無視することにならないだろうか。

 

私が言いたいのはこういうことなのだ。

 

小学生のうちに、障がい者と接して、差別しないための平等精神を感覚的に学ぶことは大切だ。けれど、それだけで終わってはいけないと思う。より高度な配慮をするために知識として知ること 、そしてそのことで差別しないという意識を持つこと、これが必要なのではないだろうか。

 

 

 

三宅さんがパラリンピックのナビゲーターを務めたことで、障がいそのものに目を向ける機会ができたと思う。私達に出来るのは、それをパラリンピック期間だけではなく、これからも続けることだ。みんなの手話で聴覚障がい者の特集を見る。地域のイベントに参加する。できることはたくさんあるだろう。

V6ファンは幸運にも、三宅さんを通して障がいに興味を持つきっかけを得られた。この風潮がこのまま続けばいいな、と思う。